2015年4月9日木曜日

外国語を学ぶ理由について私が思うこと

こんにちは、トレーナーどばしです。


今日は少し、長めのお話を書こうかと思います。

私は数年前から試験のためではなく、趣味と仕事をかねて英語が使えたらという思いで

勉強を続けてきました。おそらくこれから先もずっと続けていくことでしょう。

留学をしたり英会話スクールに通ったりするような金銭的、時間的な余裕がない中で、

独学で英語を練習してきました。




本やネットを漁り、効果的な練習法だとみれば新しかろうが古かろうが、

ネイティブの人の言うことだろうが日本人の人が言うことだろうが、

とりあえず試してみました。なるべくコストパフォーマンスがよさそうなのを選んで。






それでも今にして思うと、初めの3,4年はあまり楽しくなかったように思います。

翻訳とか通訳案内士でお金になったらという実利的な結果を求めることばかりに

頭がいっていて、英語が単なる手段にすぎないものになっていました。



これまでの投稿で何度か書いたことがありますが、

英語が道具であり手段です。でもそれはコミュニケーションをするためのものです。

お金を得るためという実利的な目的とか、できたらかっこいいからという虚栄心を

満たす手段にするにはあまりに広く深い世界でした。



きっかけは別になんでもいいのかもしれませんが、

本当に続けようと思ったらそんな表層的な動機では簡単に遭難してしまう大洋でした。

と、気づきました。



それはそうそうです、知らない単語や表現なんて次から次へと出てくるし、

その言葉に込められた感情なんて人の数だけあるんですから。






少し英語が楽しくなってきたのは、勉強することによって得られる結果を

あまり気にしないようになってからだと思います。


まあ、今でも気にならないことはないんですけど(笑)

こんなん覚えて役に立つことあるのかな、なんて試験勉強をしている

学生の頃のようなことを考えたり。



それでもその程度はしょうがないとして、ぼつぼつと特に見返りというか

報酬というか成果というかを期待することなく、

日常の中で本を読むときと同じ気分で英語がやれるようになってきました。



英語と友達みたいな感覚で付き合うというとなんだかまた、と言われそうですが、

けっこうそれに近いものだと思うようになっています。

何年か前からフィンランド語をやるようになってよけいにそう感じるようになりました。







英語を学校とかで勉強しているときに、

複数形とか三人称とか関係代名詞とか、

まるで馴染みのない言葉が機関銃のように先生の口から飛び出してくるのを聞いていて、

うわ英語とは仲良くなれないな、という気持ちになりませんでしたか?




もちろん数学でも世界史でも同じかもしれませんけど。

そもそも兄も弟も”brother”、姉も妹も”siiter”ってなんだよ、大ざっぱすぎだよ!

そのわりに1つかそれ以上かはやけに気にするんだな!


これは私です。


試験勉強をしなきゃいけないはずがそんなことばかりが気になって、

けっきょく本棚から小説を取り出して現実逃避を決め込むのです。

あ、だからそんな英語の成績とかよくなかったです。



受験勉強になってようやくとりもどしたくらいで。

友達づきあいがよくなかったんですね。すまんかったよイングリッシュ。





でもフィンランド語もちろっとかじり始めて感じたのは、

そういうのが個性というか性格なんだということです。



けっこう衝撃を受けたのは、

フィンランド語は「彼は」も「彼女は」も”hän”ということを知ったときです。

brother・sister以来、あるいはそれ以上の驚きでした。



なるほど、だからフィンランドの女性はたくましいとよく言われているのか・・・、

なんて方向違いの一人合点をしてしまいました。



ところがフィンランド語は語順が比較的ルーズなところは日本語に似ていたり、

基本的にはアルファベットに近いところは英語と似ていたりします。


一方で同じヨーロッパの言葉でありながら、

まったく英語と単語が違うことが多く、

それでいて日本語にある音なのに違う意味だったりと相違点と共通点が

それぞれあって面白いです。



やけに発音がかわいらしいのもフィンランド語の特徴でしょうか。

まだまだ初心者なのでこれからも新しく知る顔があると想像するだけで

楽しくなってきます。


外国語はできれば3か国語以上やった方がいい、

なんてことを言っていたのは誰でしたかもうわすれましたが、

あながち暴論ではないようです。それぞれの言語を少し客観的に見ることが

できるようになるからでしょう。





翻訳を上達するためには日本語のセンスが何よりも

(英語の解釈力よりも)問われることもあり、

日本語もおろそかにしないようにしつつ、英語とフィンランド語との交流を

続ける日々なのですが、けっこう私自身のものの見方や考え方に

影響を与えていることに気づくようになりました。



まずは、自分に馴染みのない世界に対して拒否反応をあまり示さなくなりました。

フィンランド語はもちろん、英語にもまだまだ自分に馴染みのない

フィールドがあるでしょうし、これからも別の外国語を増やしていくつもりなので、

それこそカルチャーショックを受ける覚悟は満々です。

だから「意味わからない・・・」といって敬遠しない姿勢が前よりついた自覚があります。





これってけっこう大切なことなのだと感じています。

話が大きくなってしまうけれど、差別とか思想、宗教の対立というのも、

こうした「(自分にとって)わけのわからない」ものを一方的に排除しようとする

気持ちが働いているのも一因ではないでしょうか。



怖いですもんね、得体のしれないものって。


子供の場合、得体が知れないから怖いもの(おばけとか)は逃げたり、

目を閉じたり、耳をふさいだりしますけど、

大人になってしかも力を持っている人たちともなると、逆にそれを取り除こうとします。

いや、子供にもいじめがありますからやっぱり同じですね。

私たちが「わけのわからない」ものを切り捨てることによって

自分が不安にならないでいられるようにしてしまう弱さを持っていることに

気をつけなければいけないんですね。





ちなみに私は次にアラビア語をやりたいと思っています。

なんだろう、あのわけのわからない文字は。





そして、その延長として「慣れる」ということがあります。


ふと、自分自身が兄や弟、姉と妹に区別がないことや

彼か彼女か気にしないところにいつの間にか慣れていることに

驚いたことがそれぞれありました。それがさらに自分自身の考え方を

変えていることに気づいてさらに驚きました。



別に英語やフィンランド語を使っていないときでも、

年齢の上か下か(敬語はちゃんと使いますよ)とか、

向こうにいるのが男性か女性かとか以前より気にしなくなっています。



これらは一例で自分でもはっきり自覚できたことなので、

きっとほかにも大小さまざまな変化が私に起きてきたのは間違いありません。





人と長く付き合うにあたって、自分とは違う考え方や習慣に

いつの間にか慣れてしまうというのは便利なものです。

そういうちょっとした細かいことへのイライラが積み重なって、

もうお前とは無理だ!ってなることもありますもんね。


いいとか悪いってことじゃないはずなのに、

「違っている」のがそのうち「間違っている」と思い込んでしまったり。

でもそれはdifferentなだけで、wrongなわけではないのかもしれません。


そうした自分とは違う相手に「慣れる」という姿勢を教え続けてくれているのが、

私にとっては英語でありフィンランド語、外国語なのです。







なんだか道徳的なお話のようになってしまいましたが、

きっと自分にとってもオトクなことなはずです。

日常の中での不安やイライラがいくらか解消されるからです。

もちろん日々、外国語を続けていることが前提ですが。



何にせよ、お互いがhappyならいいですよね。

きっとbadなこともお互い受け入れられるはずです。

そう、そんな意味でも、

英語は(外国語は)コミュニケーションの道具なんだと信じています。





これまでつらつらと考えてきたことを書いてまいりましたが、

最後まで読んでいただきありがとうございました。

0 件のコメント:

コメントを投稿

こんな記事も読まれています

運営者紹介

英日産業翻訳者です。IT系やスポーツ関連商品などの企業コンテンツ、コミュニケーションやゲームのアプリの翻訳やレビュー、品質管理をしています。 2020年に東京から和歌山に移住しました。時間ができると、美味しいものやきれいな景色、由緒あるスポット、面白いイベントを求めて、折りたたみ自転車でふらふらと出かけていきます。

連絡フォーム

名前

メール *

メッセージ *